【コラム】北朝鮮工作船事件

勝股秀通(日本大学危機管理学部教授)

米朝は2018年6月12日、史上初の首脳会談を行い、「完全な非核化」に取り組むことで合意した。だが、その対象を北朝鮮ではなく朝鮮半島とするなど、先行きには不透明感が漂い、とても北朝鮮の口約束を鵜呑みにすることなどできない。と同時に、核とミサイルだけでなく、拉致事件を含めて北朝鮮が繰り返してきた数々の工作活動も、北朝鮮への不信感を募らせている。その一つが工作船事件である。
事件は1999年3月、防衛庁(当時)の通信所が、能登半島付近の日本海から発せられる不審な電波を傍受したことに始まる。暴風波浪警報が発令される荒天の中、海上自衛隊のP3C哨戒機は、怪電波の発信源を探知、大しけの波間に潜んでいたのは、無数のアンテナを林立させ、日本の漁船名を偽装した2隻の不審船だった。
「北朝鮮の工作船の可能性が高い」と判断した自衛隊幹部の脳裏には、原発が建ち並ぶ福井県の敦賀半島に、北朝鮮の武装兵が上陸するシーンから始まるベストセラー小説「宣戦布告」(麻生幾著)の一場面が思い浮かんだに違いない。工作船は北朝鮮特殊部隊の兵士を敵対国に潜入させる“足”だからだ。
警察の情報では、工作員が上陸した痕跡は確認できなかった。だが、自衛隊は基地や駐屯地の警備を強化、海上保安庁は直ちに巡視船艇を出動させ、漁業法違反などの容疑で2隻の不審船の追跡を開始した。しかし残念ながら、荒海を40㌩(約72キロ)超の猛スピードで逃走する不審船に追いつくことはできなかった。
政府は海保の能力(警察力)を超えた事態と判断、自衛隊に初めて、自衛隊法82条の「海上警備行動」を発令した。海自は護衛艦とP3Cで追跡、逃げる不審船の周辺海面に、速射砲35発を放ち、対潜爆弾も投下するなどして威嚇を続けたが、自衛隊に与えられた権限は警察官職務執行法に基づき、威嚇や警告によって停船を求めることだけ。正当防衛でなければ船体を直接狙った射撃はできず、逃げるだけの相手には無力だった。結局、不審船は警告を無視し、北朝鮮北部にある清津の軍事施設に逃げ帰ってしまった。
主権侵害の不審船をまんまと取り逃がした不名誉な事件とも皮肉られるが、存在意義を問われた海保は、すぐさま高速艇や40㍉機関砲を装備した巡視艇を配備、翌2000年に控えた沖縄サミット(先進国首脳会議)の警備訓練を名目に、工作船対策を強化した。
訓練はすぐさま功を奏し、01年12月、鹿児島県奄美大島沖で北朝鮮の工作船を発見、追跡する海保の巡視船艇に対し、工作船は機関銃やロケットランチャーで攻撃、巡視船艇は被弾、海上保安官3人も負傷するが、「正当防衛」を理由に激しく応戦する海保の攻撃の前に、工作船は自爆し、乗組員ともども海の藻屑となった。
相次ぐ工作船事件を機に、政府はもとより、一部のメディアの間では、自衛隊に領域警備の権限を付与すべきといった議論や主張が繰り返された。武装工作員が侵入し、原発などの重要施設や、政経中枢機能が破壊される事態も想定されたからだ。しかし、自衛隊の権限強化へのアレルギーは根強く、領域警備をめぐる課題は放置されてしまった。
その後、政府は2013~15年にかけて、集団的自衛権の一部行使など平和安全法制の成立に取り組むが、日本の沿岸や海洋の警戒監視、いわゆる「領域警備の強化」については、今に至るまで何の手立ても施されていない。

「安全保障用語」編集部